戦跡と追悼碑をめぐる旅 TOPICS

戦跡と追悼碑をめぐる旅

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投稿者:南里章二

ネグリ・センビラン州の追悼碑を訪ねて1

日本軍による「敵性華僑狩り」は、シンガポール、マレー半島、そして北ボルネオでも行われた。しかし終戦時日本軍が現地を去る時、その証拠書類は焼却され記録はほとんど残っていない。奇跡的に軍中隊の公式記録であるネグリ・センビラン州の「陣中日誌」が、防衛庁図書館に保存されていたため、この地域での粛清の全貌が明らかになった。

ネグリ・センビラン州の地図

 

マンティンーゴム園の住民皆殺し

クアラルンプールから南へ約60キロの地点にあるネグリ・センビランの州都セレンバンから、さらに北に向かって約10キロ上がるとマンティンの町がある。この周辺ではすでに「敵性華僑刈り」が実施されていたが、日本軍は再びやって来て万福利ゴム園の住民200名以上を虐殺した。(1942年3月22日)

マンティン 左に入ると紀念碑がある

事件の発端はこの事件の数日前のことである。ここに盗みに入った泥棒が捕えられ、殴り蹴られた後に放り出された。それを恨んで日本軍に住民はゲリラとその協力者だと偽りの密告をしたのだ。日本軍は真偽を確かめないまま殺害を次々と行った。

『このゴム園で働いていた葉雲氏は、この日の朝マンティンの町に出かけていた。10時過ぎにゴム園にもどったところ、人々はすでに殺されていて日本軍はもういなかった。ゴム園には宿舎があって、そこに住んでいた人々と、隣の広福成ゴム園の住民と、そこへ避難してきた人たちが、この万福利ゴム園に集められて殺されたのだ。彼らは男女一緒にゴム林の中と、隣のゴム園との境界付近との二カ所で何人も紐でつながれたまま、まとめて刺し殺されていた。生き残った葉春和氏から葉雲氏が聞いたところによると、日本軍がゴム園にはいってきたとき、戸口調査と思ったので宿舎の人々は食事をつくってもてなそうとした。だが日本兵はその食事に手をつけず、住人を縛り上げて殺したという。葉雲氏の家は別の所にあったので妻子も助かった。』(「華僑虐殺」すずさわ書店 林博史著より)

証言する葉雲さん 「東南アジア3」ほるぷ社

虐殺された遺体はバラバラになったまま放置されていたが、数ケ月後、親戚らによってドラム缶に入れて埋められた。

日本軍による住民虐殺犠牲者の墓は、マレーシア全土に数十ケ所もある。しかし戦後はシンガポールの独立、マレー系住民と中国系住民の政治・経済的対立などの複雑な民族問題が国民の主要な関心事となり、戦時中の記憶は次第に遠いものになっていった。

歴史の掘り起こし

しかし1982年、文部省が高校の歴史教科書検定において、中国への「侵略」を「進出」と書き替えをさせていたことが判明した。これを契機に華人の人々の間に、侵略の事実をしっかり自分たちで記録に残さなければならないという気運が高まった。

華人団体をまとめるネグリ・センビランの中華大会堂は、地元のジャーナリストと共に虐殺の生存者や目撃者を捜し出し、聞き取り調査を行って証言を集めた。

証言集「日治時期森州華族蒙難史料」

証言集は資金難のため、なかなか出版の目途が立たなかった。6年後にようやく実現できたが、それは長年戦跡を訪ねる旅を重ね、日本にその史実を紹介してきた琉球大学名誉教授の高嶋伸欣氏らの尽力によるところが大きかった。詳しい経緯は証言集の日本語訳「マラヤの日本軍」(青木書店)に詳しく述べられている。

追悼碑の横で完成までの経緯を説明する
高嶋伸欣氏 2017年8月

記憶を継承する

忘れられていたドラム缶の骨が掘り起こされた。そして調査の過程で見つかった新たな遺骨と一緒に、旧来の墓の隣に新しい追悼碑が建てられた(1985年)。

注)蒙冤:無実の罪を被るという意味。「蒙冤」字が刻まれている碑は、マレーシア全土にある70余りの追悼碑や墓の中でもここだけで、日本の高校教科書にもこの写真が掲載されたことがある。

紀念碑
墓地は非常に入念に手入れされている。

2017年春に次いで8月14日、私は「高嶋ツアー」の皆さんと一緒に再度この地を訪れた。墓地を管理する「義山管理委員会」の方々の暖かい歓迎を受け、日本は二度と戦争を起こさないこと、それに逆行する阿部政権には断固反対をしていくことを墓前に誓った。

義山(墓地)を管理する地元の皆さん

投稿者:南里章二

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