戦跡と追悼碑をめぐる旅 TOPICS

戦跡と追悼碑をめぐる旅

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投稿者:南里章二

ネグリ・センビラン州の追悼碑を訪ねて2

抹殺された村-イロンロン村

ネグリ・センビランの州都セレンバンから少し北東に入った盆地に、ティティという小さな町がある。さらにここから西500メートル奥に入った所にイロンロンという村があった。マレー半島最大規模の虐殺事件が起こった場所である。

セレンバンに行く道路標識  2017年5月撮影

 

1942年3月18日朝、この村に約100人の日本兵がやってきた。食糧配給のため身分証を点検すると言って、村長に村人たちを小学校に集めさせた。

学校の広場に集められた千数百名は、2~30人ずつのグループに分けられ、近くの民家に入れられた。そして虐殺が始まった。彼らを跪かせ突然背後から銃剣で刺殺し始めた。男女子供の区別なく次々と突き殺し、そして家々を焼き払っていった。

夜になっても虐殺は続き、約200世帯あったイロンロン村はほぼ完全に焼き払われた。「炎が高く舞い上がり、真っ黒な煙の中から人々の悲鳴が響き渡るのを耳にした。」と運よく生き残った人は証言する。

ここは、共産党の根拠地の一つと見なされていたためであるが、実際に潜んでいたのはごく僅かだった。イロンロン村はこのようにして地図からなくなった。事件後仮埋葬された遺体は1474名だった。

遺骨の掘り起こし作業
「東南アジア3」ほるぷ社

70年代になってようやく遺骨が掘り起こされたが、そこに墓を建てることが許可されず、共同墓地に移して墓と紀念碑が建立された。2005年には新しい追悼碑が作られ、元の墓は前方に移された。村があった所は政府の土地開発によって整備され、現在はマレー人の住宅地になっている。

中華義山(華人共同墓地)の中にある追悼碑。
前方が古い墓。2017年

 

小さな資料館

ティティの町に「森美蘭知知史料協會」という小さな資料館がある。この町出身のジャーナリスト簫妙雲氏を中心に、ここで受難の歴史を語り継ぐ活動が継承されている。

森美欄知知資料館

2017年6月、私はこの會の方々と昼食を共にする機会を持った。この時の一人の言葉が印象的であった。「私たちは日本人を恨みつづけた。しかし原爆の投下でそれは差し引きゼロなったと考えている。」異論もあるだろうが、これはマレーシア、シンガポールの人が一般的に持っている心情のようだ。戦争といえば原爆の被害ばかりを強調する日本に、一石を投じるものがあるのではないだろうか。

台湾から訪れた皆さんを囲んで

 

コラム=農村の中国人=

賃金労働者として渡来した華僑は、もともと農民ではなかった。しかし1930年代の世界経済不況時に鉱山やゴム園で失業した彼らは、生きる道を求めてマレー人の村の外縁部に移住し、米、野菜、果物の栽培、豚やニワトリの飼育を始めた。

この中から次第に生活の余裕のある者が生まれ、土地所有を要求するようになるのだが、英植民地政府はこれを拒否した。そのため華僑農村では反日反英闘争をする共産ゲリラへの心情的支持が芽生えた。日本軍はこの地域一帯を共産党の根拠地とみなし、住民を皆殺しにした。

投稿者:南里章二

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