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世界史の中のマレーシア

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投稿者:南里章二

世界史の中のマレーシア2-マラッカ王国

マラッカ王国の誕生

14世紀の末から15世紀の初めにかけて、マレー半島のマラッカに王国が誕生した。1511年から3年間、マラッカに滞在したポルトガル人トメ・ピレスが著した「東方諸国記」によれば、その建国者はスマトラ島のパレンバンの王家出身のパラメーシュヴァラであるという。ジャワの強国マジャパヒト王国によるパレンバン征伐の際、彼は30名ほどの海の民とともにシンガポールを経てマレー半島に逃れ、マラッカ川の上流に住み始めた。これがマラッカの町の始まりとされている。

スルタンパレス 当時の王宮を復元した建物。内部は文化博物館

15世紀のマラッカ王国 「マラッカ物語」鶴見良行著 時事通信社より

鄭和の大遠征

その頃中国では、元を倒した明が成立していた。その第三皇帝、永楽帝(在位1402~24年)は積極的な対外政策を展開しており、宦官鄭和に南海大遠征を命じた。彼は計6回(その後の宣徳帝の時代を含めると7回)にわたり大艦隊を編成し、アフリカ東海岸にまで達する大航海を行った。バスコダ・ガマ率いるポルトガル船隊がインド航路の途中に寄港したアフリカ諸島の住民たちの言い伝えによると、その規模、船体の大きさともに鄭和の艦隊にははるかに及ばなかったそうである。

鄭和像 マラッカ市

鄭和の大艦隊「アカデミア世界史」浜島書店より

永楽帝

 

 

 

 

 

 

鄭和は遠征の途上にマラッカ、スマトラに立ち寄ったが、その時この地域の各地はタイのアユタヤ朝の支配下にあることを知った。マラッカも服従の意を表すために毎年一定の金額をアユタヤに納めなければならなかった。

明は冊封(皇帝の命令書である冊書を以て爵を授けること)を受け朝貢をおこなう国々は互いに対等であらねばならぬという立場をとっていたため、鄭和は、皇帝の代理としてアユタヤに警告を発した。これに感謝したパラメーシュヴァラは、鄭和の帰国の際に使節を随行させ正式に明に朝貢をした。鄭和は第三回航海の時、再度マラッカに寄港し、パラメーシュヴァラに皇帝の詔勅と銀印を授け、彼を正式に満刺加(マラッカ)国王とした。中国との関係を強めたマラッカは、国際的な貿易港となって繁栄していくようになる。

青雲亭(チェン・フン・テン寺院) 鄭和の功績をたたえ1645年に建立された。マレーシア最古の中国寺院と言われる。

マラッカのイスラーム化

インドおよびインド以西からのイスラーム商人の到来も増え、彼らの定住も始まった。マラッカ国王もイスラームに改宗した。これは多分にイスラーム商船の寄港を増やし、街をさらに繁栄させたいという思惑があったようだ。

マラッカ王国の交易(15世紀)「マラッカ物語:」鶴見良行著より

鄭和は、雲南省にムスリム(イスラム教徒)として生まれた。彼はマラッカに対して好意的であったのは、王に対して宗教を同じくする者としての親近感があったのかもしれない。永楽帝の死後、明は外交方針を変更し鎖国状態になる。鄭和の遠征も終了せざるをえなくなった。それにより西のイスラーム世界の関係がさらに強化され、第五代国王ムザッフル・シャーは初めてスルタンと称して国家の礎を固めた。以降マラッカを中心に、東南アジア島嶼部の周辺世界にもイスラームは浸透してことになるのである。

イスラーム人の到来 マラッカ博物館展示

 

カンポン・クリン・モスク(18世紀)

 

世界史の中のマレーシア3 「ポルトガルの支配」は次回発信予定。

投稿者:南里章二

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