世界史の中のマレーシア TOPICS

世界史の中のマレーシア

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投稿者:南里章二

世界史の中のマレーシア1 ー古代マレー世界

序章

人類発祥の地、アフリカを旅立ったホモサピエンス(現生人類)が、マレー世界に到着したのは今から約4万年前といわれる。サラワク州のニアの洞窟の深層部から、初期のホモサピエンスのものと思われる頭蓋骨が発見された。その4万年前の頭蓋骨は、まさしく現在もその周辺に住んでいるダヤク族(注1)のものとほとんど変わりがなかった。

約3万年前、最後の氷河期が終わり東南アジアの陸続きの世界が海面上昇により分離し、現在のマレー半島の地形ができ上った。

注1)ダヤク族:マレー系先住民の総称。フィリピンの諸族と近い北部(ムルットなど)、中央カリマンタン部(カヤン、クニャなど)、西ボルネオ部(イバンなど)の3群が認められる。

石器時代

ニアの古層から出土された石器は、上層部が次第に精巧な造りとなっており、各時代に人間が住居していた跡がみられる。ボルネオでは、石器文化は金属時代に入っても廃れることなく現在まで続いている。遺跡の最上層から出土したきれいに磨かれた石斧などの磨製石器のいくつかは、西マレーシア出土のものとよく似ている。マラヤ各地で発見されたこれらの石器は、現在も大学や博物館で研究が進められている。

農業技術の伝来

国立博物館のモザイク壁画

20世紀初めのボルネオ先住民
東南アジア3 ほるぷ社より

 

 

 

BC2000年頃に水稲農耕が始まったとされるが、この地域でいつ狩猟採集経済から食物栽培経済に移行したのか実証することはむずかしい。というのも初期の食物栽培は、焼畑による移動式農業で、食物栽培が始められた後も平行して狩猟採集が行われていたために、(現在も、ボルネオ島のダヤクの人々は焼畑農業を、プナン族は狩猟採集生活をおこなっている。)遺跡の調査において、両者の差異を見分けることは非常に難しいからである。

金属器時代

ベトナムを中心とする扶南地域に広くみられるドンソン文化(BC5~AD2頃)とよく似た青銅器が、マレーシアでも発見されている。

ドンソンの青銅器

マレーシアの銅器
マレーシア国立博物館

 

 

 

 

しかし、マレーシアの金属文化とドンソン文化との関係については、まだ不明な点が多い。注目すべきことは、紀元1世紀前後にマレー・ポリネシア系の人々が、カヌーでインド洋をわたってマダガスカルに移住したことが2005年にほぼ確定された。現在の住民はマレー系とアフリカ大陸東南部の人々との混血であることがDNA検査によりわかったのだ。

代東南アジア世界

ともあれ7世紀初めまでの東南アジアは、インドシナ半島を中心に展開していた。最古の王朝と言われる扶南は、現在のベトナム、カンボジアを流れるメコン川下流にあり、長期にわたって東南アジア一帯に権勢を誇っていた。

扶南周辺地図「世界史ミュージアム」 とうほう出版

マレー半島やスマトラ、ジャワなど島嶼部でできた政治権力は、いずれも弱小なものであった。マレー民族の祖先は、この時代、まだその姿をはっきりと現わしてはいない。

 

マレー文化の形成

紀元1世紀から7世紀にかけて、マレー世界にはインドや中国の商人,使者、留学生などにより双方の文化が長い時間をかけてゆっくり浸透していった。インドからの影響は中国よりも古いようだ。マレー語には、サンスクリットからの借用語が多く、マレーの伝統的な慣習や法律の中にヒンドゥー的要素を見出すことができる。「ラーマーヤナ」をテーマにした影絵芝居や、結婚式・儀礼の中にもインド的要素が残っている。また大乗仏教もスマトラ、ジャワ一帯に広く伝播していった。

影絵芝居の人形

影絵芝居

 

 

 

6世紀になると扶南の勢いが衰え始める。最盛期におけるインドと中国を結ぶ貿易路は、クラ地峡を陸路横断するルートが一般的だったが、扶南の凋落と共にもっと南の地域、マラッカ海峡を通る海路が利用されるようになった。ジャワ、スマトラに繁栄のチャンスがやってきたのである。

クラ地峡「マラッカ物語」
鶴見良行著より

ではマレー半島はどうだったのか。残念ながらこの地の人々は自身による歴史の痕跡をほとんど残さなかった。漢字による中国史書、サンスクリット語、パリー語などインド系言語による古代説話、アラビア文字によるペルシャ、アラブ系の史料など、ほとんど他国の記録だけが古代のマレー史に手がかりを与えてくれるのみである。これらの記録のつき合わせから、少しづつ歴史が明らかになってくるのは、7世紀以降のことである。

古代国家の誕生

7世紀中葉、マラッカ海峡を通る交易が主な経済的基盤であったと思われる古代国家が二つスマトラに姿を見せる。一つはパレンバンのシュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝国)。もう一つは、パレンバンの北にある現在のシャンビを中心とするムラユ王国(摩羅游国)である。

シュリーヴィジャヤ王国 「世界史ミュージアム」 とうほう出版より

中国には「摩羅游(まらゆう)国」が唐に入貢した(644年)という記録が残されている。

リゴール碑文(注2)によるとシュリーヴィジャヤは7世紀に勃興したと考えられるが、その起源は明らかではない。シュリーヴィジャヤは、まず対抗勢力であったムラユ王国を倒し、その後、勢力をマラッカ海峡を越えてマレー半島にも伸ばしていく。マレー人の民族形成は、この二つの王国の下で始まることになる。

注2)リゴール碑文:683~686年の日付のある一連の出来事の記録を彫った碑。バンコク国立博物館蔵)

シュリーヴィジャヤの繁栄

10世紀に入ると、中国への入貢と友好関係の進展によってさらに勢力を拡大し、スマトラ、マレー半島、ジャワ諸国はすべてシュリーヴィジャヤ王国の傘下に入る。11世紀になると支配権は弱まるものの、宋が東南アジア貿易を活発化させ、アラブの商船も12世紀以降中国貿易に参入するようになり、パレンバンはこれらの積換え地としてマラッカ海峡に君臨した。

古代仏教の伝来

シュリーヴィジャヤの交易における目ざましい活動とともに、見逃すことができないのは、ここが大乗仏教の一大中心地として歴史的役割を果したことである。西暦671年、中国の僧義浄は、インドへの留学の途上6ケ月ここに滞在した。その著書「南海寄帰内法伝」(注3)の中で、この国の仏教の繁栄ぶりを描いた。インドからの帰路では5年間留まり、収集した400種にものぼる経典類を翻訳したという。

パレンバンの港

インド航路のダウ船

シュリーヴィジャヤ王国
「世界史ミュージアム」東方出版より

注3)南海寄帰内法伝::『パレンバンには僧侶が1000名以上もいて、学問にいそしみ・・中略・・彼らが極めようとしている書物はすべてインドのものと異ならないし、出家者の儀式のやり方もすべてインドと同じである。唐の僧侶で西方に行って学問をしようとする者がいれば、そこに1、2年滞在してのちインドに進むのもよいことである。』「変わる東南アジア史像」山川出版より

シュリーヴィジャヤの凋落

その後中部ジャワに、古マタラム王国とボルブドールで有名なシャイレンドラ朝が相次いで成立し、シュリーヴィジャヤ王国を服属させた。その後300年にわたって南インドのチョーラ朝の侵入をはさんで両国の攻防が激しく続くことになる。11世紀になると多数の港市国家を統合してスマトラに三仏斉(連合国家)、ジャワにはクディリ、シンガサリ両王国が誕生する。シンガサリ王国は1292年、元(1271~1368)軍の攻撃を受けるが、その後東ジャワに成立したマジャパヒト王国が元軍を撃退する (1293)。

マジャパヒト王国が最盛期を迎え、その版図拡大にともなってジャワ商人の活動も活発になる。マレー人の活動の舞台であったスマトラ島にも勢力が及び、栄華を誇ったシュリーヴィジャヤ王国は、13世紀ついに滅亡する。この時多くのマレー人はマレー半島に逃れ、ここがその後の彼らの舞台となるのである。

投稿者:南里章二

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