日本軍占領下のマラヤ TOPICS

日本軍占領下のマラヤ

投稿日:

投稿者:テレジア.M.インダ.ヒロタニ

日本の中国侵略

華僑弾圧の背景

マレーシア、シンガポールにおける華僑弾圧の背景には、1920年代から始まった日本の中国侵略に対する彼らの抗日運動があった。日中戦争が本格化すると、東南アジアの華僑(注1)は団結を強め、日本製品の不買運動、物資輸送、義援金送付などさまざまな方法で母国の抗日戦争を支援した。

五・四運動(注2)
「アカデミア世界史」 浜島書店

五・四通り 北京市

 

 

 

 

 

 

侵略の拡大

中国大陸への本格的侵略を目論んでいた日本の田中内閣は、1927年国民政府内の対立につけ込み、居住民の保護を名目に第一次山東出兵(注3)をおこなった。当時各地では軍閥(注4)が抗争を繰り広げていた。翌1928年、国民党の蒋介石(注5)率いる北伐軍(注6)済南(注7)を占領すると、「自衛措置」と称して第2次山東出兵(1928年)を行なった。

蒋介石(1887~1975)
「世界史のミュージアム」東方出版

ポーツマス条約(1905年)で獲得した旅順,大連に駐屯していた関東軍の将校らは、国民党に敗れて、北京から奉天(現瀋陽)に敗走する東北軍閥奉天派の首領張作霖を列車ごと爆殺した(1928年6月)。日本軍部が中国東北地方の直接支配をねらって起こしたものである。

奉天郊外の張作霖爆殺現場

満州事変

1931年9月18日、関東軍は奉天の北4キロの柳条湖で満鉄線路を自らの手で爆破し、それを張作霖の息子張学良の仕業であるとした。そして軍事進攻をさらに拡大し奉天を占領する。以降抗日運動は激化し、各地でデモやストライキが頻発した。

9.18満州事変紀念碑
中国では満州事変を「9・18事変」と呼ぶ。

翌1932年1月、陸軍参謀本部は関東軍(注8)の北進を容認した関東軍はわずか5カ月で満州全域を占領して「満州国」建国を宣言する。

関東軍は、清朝最後の皇帝溥儀(注9)を国家元首に相当する執政に担ぎ出し、「国家」としての正当性を国際的に訴えようとした。

溥儀(1906~67)

しかし国際連盟は、リットン調査団(注10)の調査報告にもとづき、日本の満州支配は正当性を持たないとして「満州国」を不承認した。これに対し日本は1933年3月、国際連盟脱退を通告する。日本の国際的孤立は決定的なものとなった。

柳条湖事件を調査するリットン調査団
「アカデミア世界史」浜島書店

国民党と共産党

蔣介石は日本の侵略が拡大していくにもかかわらず、共産党の台頭を敵視して、大弾圧を始めた。数度にわたる激しい包囲攻撃を受けた紅軍注11)は、それまでの根拠地である江西省瑞金を放棄し、新しい根拠地を求める大移動を開始した。国民党軍の攻撃を受けながら、大雪山や大湿地帯の難所を越え、2年後に陝西省延安に到達。この1万2千キロにおよぶ踏破行を長征(注12)と呼ぶ。

海抜4000メートル以上の大雪山を登る紅軍
「世界史のミュージアム」東方出版

長征直後の共産党指導者
左から周恩来 朱徳 毛沢東
「世界史のミュージアム」東方出版

西安事件

張学良は、国民党について対紅軍の司令官になったが、抗日第一を主張する紅軍に共鳴するようになった。1936年、対紅軍作戦の督促のため西安に入った蒋介石に内戦の停止を要求。それを拒否した蒋介石を武力で軟禁した(西安事件)。周恩来らの説得によって、蒋介石は抗日に同意し釈放された。この事件をきっかけに、対立していた国民党と共産党が、抗日のために共に戦うという歴史的転換がおこった(第二次国共合作)。紅軍は蒋介石の統率下に入って八路軍と改称された。

記者会見をする90歳の張学良。1990年
事件後禁固刑を受け、戦後も長く台湾で軟禁状態に
されたが、1990年代名誉回復。2001年100歳で死去した

日中全面戦争

翌1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が武力衝突。停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本は華北に派兵したため日中全面戦争(1937~45)に発展する。

盧溝橋

国民政府は、首都を南京から重慶へと移して抗日戦を続ける覚悟をした。

日本軍は都市への爆撃を繰り返した。特に3ヵ月続いた重慶への爆撃は、1940年の5夜連続爆撃で頂点に達した。70万人が住む重慶の空襲は、軍事目標ではなく住民に対する無差別爆撃で、中国の戦意を挫くためのものだった。日本軍機のべ500機が来襲。死傷者は3万以上といわれる。しかし国民政府はあくまで抗戦し、重慶は戦いのシンボルとなった。

爆撃後の重慶 「日中戦争」草の根出版会

日本軍は各地で略奪、暴行、殺戮を重ねていた。この中で最たるものが南京虐殺(1937年12月である南京占領部隊が捕虜・一般市民の多数を虐殺した事件で、日本軍の悪名は国際的に広まった。被害者数は数千人から30万人と研究者によって異なっており確定されていない。

南京大虐殺記念館

米、英,ソ連は中国を援助した。日本はアメリカからの石油輸入が途絶えたため、資源豊富な東南アジアに活路を見出そうと侵略を拡大していった。1941年12月、マレー半島に上陸。次いで真珠湾攻撃によりアジア太平洋戦争が始まる。

真珠湾攻撃

注1)華僑:海外に居住する中国人をいう。英領マラヤに渡った中国人は19世紀より急増した。清朝の腐敗と前近性に早くからく気づき、孫文らの革命運動に多額の資金を提供した。

注2)五・四運動:パリ講和会議で中国が主張した21箇条の要求の破棄が無視されたため、1919年5月4日北京大学の学生が排日デモを行った。これを機に全国的な反日運動が展開される。21箇条要求とは1915年1月、日本の大隈内閣が袁世凱政府に提出した山東の旧ドイツ権益の譲渡や、中国内政への干渉などを要求した内容のもの。

注3)山東出兵(1927~28):この事件のねらいは、国民革命軍の北伐による中国統一の阻止と、日本の軍事的進出にあった。済南事件後さらに増強部隊を送り、内外の避難をあびた。

注4)軍閥(1916~28):袁世凱の死から蒋介石の北伐完成までの間、北京政府の実権をめぐって争った大小の軍事集団。奉天派の張作霖はその代表。軍閥は民衆を封建的強圧的に支配したが、その背景には帝国主義列強の支援があり、中国の分裂と民衆の困苦を助長した。

注5)蒋介石:孫文の死後国民党内で実力をのばし1926年国民革命軍総司令者となり北伐を成功させた。1928年南京で国民党政府主席となり抗日戦争を戦う。その後国共内戦で共産党に敗れ、台湾に逃れて反共独裁政府を樹立した。

注6)北伐(1926~28):国民革命軍が軍閥を倒して中国を統一するために行った戦い。軍は広州から済南へ、そして北京に入城。張作霖が国民党に敗れて統一は完成した。

注7)済南事件:1928年済南で起こった日本軍と北伐軍の衝突事件。日本軍は数千人の市民を虐殺した。北伐軍はさらなる衝突を避けるため、その後は済南を迂回して北京をめざした。

注8)関東軍:関東州と南満州鉄道の警備を担った陸軍部隊。政府の意向を無視して、独断で中国の戦争を拡大していった。

注9)溥儀 ;3歳で即位し辛亥革命により退位。関東軍が成立させた満州国の傀儡皇帝になる。第二次大戦後戦犯として服役したが、1959年出所し一市民として余生を送った。

注10)リットン調査団:国際連盟日華紛争調査委員会。団長リットン(英)らが現地調査を行い、満州事変を日本の侵略行為とした。

注11)紅軍:中国共産党の軍隊。武器・装備は貧弱であったが、意識が高く、農民に支持されて成長した。

注12)長征(1934~36):苦難の大移動の途上で毛沢東が主導権を握り延安臨時政府を樹立した。

投稿者:テレジア.M.インダ.ヒロタニ

テレジア.M.インダ.ヒロタニの詳細を見る