もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

〔近代(明治・大正・昭和)編Ⅰ〕 マレーに移民した人々

マレーのゴム園王 笠田直吉

ゴムの樹液から生ゴムをつくる

幕末から明治となると、一般の日本人の中にも海外に出かける人物が出てくるようになった。その中でも天草(熊本県)の笠田直吉はマレー半島で波瀾万丈の生涯を送ったことで知られる。

笠田の戸籍名は笠直次郎となっており、生まれは1851年5月10日で農家の三男だったと記録されている。16歳の時(慶応2年)に長崎に出て外国船のボイラーマンとして乗り込んだ。その頃から中国人と間違われないように「笠田直吉」と名乗りだしたという。

直吉は何年間か乗組員として各地を回ったようだが、明治5、6年にシンガポールで下船し、マレー半島に渡った。ジャングルの大木の上に小屋をつくって住んでいたという逸話も伝わるが、知り合った中国人に誘われて、森林を開墾してコーヒー園を開いた。日本人のコーヒー栽培の嚆矢だろう。

そして故郷にもどって嫁を迎え、またマレーにもどった。場所は、ネグリスンビラン州スレンバンの町の郊外トミヤンという町だった。そこで14人の使用人を雇ってコーヒー園を経営していた。故郷からも人を迎えたようである。

ところが1902年、コーヒーの相場が暴落し、直吉は破産状態になった。だが、めげずに「次はゴムが有望」とゴムの木栽培を始めた。コーヒーの木を全部ゴムに植え替えたらしい。これはマレーにおけるゴム栽培の先駆となった。この時、中川菊三という同志もいた。やがてゴム景気に沸いて大成功。日本人が次々とゴム園を開くようになる。

直吉も、スレンバン近郊に総面積2000エーカー(約816ヘクタール)を開墾してゴム園を拡大した。さらにマレー各地にゴム園はを広げたようだ。労働者には中国人やマレー人を雇い、現場監督には日本から人を呼び寄せた。かくしてマレーのゴム王と呼ばれるようになった。

その後も直吉は日本とマレーを往復しながら事業を拡大した。故郷の高浜には豪邸を建て「海外雄飛」の英雄となったのである。

ただ晩年は、決して裕福ではない。彼に取り入ってゴム園の乗っ取りを図る日本人が多くいたのである。マレーで築いた財産のほとんどを奪われた直吉は、1934年に帰国、失意のまま亡くなった。84歳であった。

その後、多くの日本人がマレーでゴム栽培に乗り出すが、その先駆者として笠田直吉は記録に残すべきだろう。

 

 

娼婦、雑貨商、香具師……日本を飛び出した人々

マラッカの街1845~52
The MALAYWORLD AND SINGAPORE より

日本人がマレー半島に渡り住み始める……いわゆる植民活動を始めるのは、先述した笠田直吉以後増えていく。ゴム園以外では、どうしても多いのが娼婦、いわゆる「からゆきさん」である。有名になった「サンダカン八番娼館」(山崎朋子著)で描かれたおサキさん(仮名)のほか、多くの女性が南洋へ渡った。多くは騙されて売られたとされるが、なかには借金を返済して逆に娼館を開く例も現れてくる。一方で、娼館経営に関わる男性も増えてきた。女衒として女の斡旋を行う者も多かった。

加藤トヨは、明治元年にシンガポールに渡っている。従兄弟がイタリア人と結婚して、シンガポールに行くのに一緒について行ったと言われる。明治7年には陶器や雑貨を扱う店を開いたという。このところははっきりしないが、イギリス人と結婚してシンガポールに来たという説もある。(あるいは同一人物ではないのかもしれない。)

いずれにしろトヨは夫が死んで生活に困り、髪を切って男装でホテルのボーイとして住み込みで働きだした。そこで評判を取り、経営者からも可愛がられたという。

そこで小金を溜めて、娼館の経営に乗り出す。日本人の船員と組んで、天草や島原の貧しい家の娘たちを出稼ぎと称して誘い出すのである。そしてカフェという名の娼館で客を取らせる。おかげで「南洋のからゆきさんの始祖」と呼ばれるのであった。

この商売は、見事に成功したらしい。おかげで東南アジア各地に日本人による娼館がオープンするようになった。トヨは、マレー人と結婚して子どもを多く成し、孫にも恵まれたと記録されている。

ほかにも明治4年におやすという女性がいて、トヨの従兄弟だともある。この当たり記録が混在しているが、同時期にマライ世界に渡って娼館ビジネスが流行ったことは間違いないだろう。そして、娼館があれば、そこに男もまとわりだす。ヒモになったり、日本人娼婦相手の商売を始めるからだ。

 

なお、トヨらより少し早く松田うたという女性がいたという記録もある。中国人と結婚してシンガポールに渡り、雑貨店の経営を始めるだけでなく、芝居小屋「ロイヤル劇場」を開いたという。芝居や歌、踊りなどの舞台を催したのである。

そのなかには明治5年に「馬来の千代松」という人物がいた。サムライ姿で頭はちょんまげ、腰には2本の刀を帯びていた。そして客に吹き矢や玉コロガシなどのゲームをさせて、当たれば景品を与えたというから、日本の祭などに出没する香具師である。店を持たないで大来で行うので大道香具師とか街頭香具師と呼ぶものだ。この商売は大当たりで大層な人気を呼んだそうだ。そして各地で開かれるようになる。

開国した日本から飛び出してマレー世界で活躍するのは、ゴム園などの農業のほか、娼婦関連、雑貨商、そして香具師など娯楽・芸人だったわけである。

投稿者:田中淳夫

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