もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

〔近世江戸編〕 漂流が引き起こした数奇な人生

ボルネオに“売られた”孫太郎

厳しい海禁政策(鎖国)が撮られた江戸時代に海外に出た日本人となると、ほとんどが漂流者だろう。たいてい漁業か運輸目的の回船が遭難して異国に流された。そのためサムライは少なく、多くが名もない庶民で記録に残りにくい。しかも鎖国している日本にもどるのも難しかった。わずかな例外が欧米の汽船や中国船で日本に送られるケースだが、それも受け入れらず追い返される場合もあった。それでもジョン万次郎やジョセフ彦など歴史に名を残す人物が出ている。

その中でもマレー世界に踏み入れつつ無事帰国できた希有な例が孫太郎だろう。

孫太郎は1744年に福岡藩(現福岡県福岡市西区宮浦)で生まれで船乗りになった。1763年、1600石の最新船・伊勢丸の乗組員として九州各地の米を大坂や江戸へ運び、さらに青森と江戸の間を行き来する仕事に従事した。

翌64年、伊勢丸は仙台藩の水崎小浦を出航し江戸に向かったが、福島県いわき市の沖を航行中に嵐に遭遇し航行不能になって漂流することになる。

約2ヶ月半の漂流の末に見えた陸地に上陸すると、頭が赤く笠を被って腰に毛布をまとい、槍や鉄砲で武装した先住民300人に襲われた。そして連れて行かれたのがカラガン村である。この村があった島は、ボルネオ島の北部かフィリピン南部のミンダナオ島であると推定されている。

やがて乗組員はバラバラに連れて行かれたが孫太郎は、7人で転売された。カラガンを出た船は20日ほどでソウロクに着いた。ソウロクと呼ぶ地名は、現在のスールー諸島のこととされる。7人は奴隷商人の家でしばらく暮らしたが、またバラバラにされて孫太郎と幸五郎の二人だけとなった。さらに二人は別の島に転売され続け、やがて幸五郎が病死した。そしてたどり着いたのがボルネオ島南部のバンジャルマシン。現在のインドネシア領カリマンタンである。スールー諸島からカリマンタンへ渡り歩いた各地の中には、現在の東マレーシア・サバ州も入っているだろう。

孫太郎はパンジャルマシンの華僑の夫婦に売られた。夫婦は呉服、瀬戸物、雑貨などを売る大商人の家であり、孫太郎は不自由なく暮らせるようになる。しかし年を経るにつれて望郷の念に駆られ、主人のタイコン官に日本にもどりたいと願い出た。タイコン官は孫太郎の帰国に協力的で、孫太郎が長崎行きのオランダ船に乗れるよう取り計らい、大量の土産を孫太郎に持たせ、浜辺まで見送りに出たという。

1771年、孫太郎はバタヴィアに向かうオランダ船に便乗してバタヴィアに到着した。さらに孫太郎は高官と面会し、日本行きの船団に乗せてもらえることになった。孫太郎の乗ったのは、1万8000石積みの大型船だったという.

長崎に到着した後に、孫太郎は出島のオランダ商館で留め置かれたが、翌17日に幕府側に引き渡された。幕府や藩からは褒美をもらったという。異国船の帰国だったが、唯一交易をしているオランダ船であったことで咎めを受けずに済んだのだろう。

故郷に帰った孫太郎は、孫七と名を改めている。彼の経験談は多くの書物になったが、この時代のボルネオなどの風俗を知る貴重な記録となっている。

シンガポールのオットソンこと音吉

漂流でたどり着くのは無人島か台湾、東南アジアだけではない。なかにはアメリカ大陸沿岸まで漂着したケースもある。そして自ら望んで帰国しなかった者もいる。

あまり知られていない漂流者にジョン・マシュー・オットソンと名乗った日本人がいる。本名は音吉。現在の愛知県美浜町小野浦出身で、数え年17歳で宝順丸という船に乗り込んだ。それが1832年とされる。しかし遠州灘で遭難し、なんと1年以上かけてアメリカのカリフォルニア沖、オリンピック半島まで漂流する。生き残ったのは3人だけだった。アメリカ先住民に助けられたが奴隷となり、その後イギリス船に売られた。イギリス人の船長は彼らをロンドン、そしてマカオへと送ることにした。マカオへの行路ではおそらくマラッカもしくはシンガポールに上陸したと思われる。それが1835年。ちなみに3人は、イギリスに上陸した初の日本人でもある。

マカオではドイツ人宣教師の世話になって聖書の日本語訳に協力した。やがてアメリカ船モリソン号で日本に向かうが、異国船打ち払い令によって砲撃されて帰国を断念する。

音吉は、その後アメリカに渡った後に上海にもどり、イギリス人として生きていくのだが、そこでオットソンと名乗るようになった。阿片戦争にもイギリス兵として参戦している。その後江戸幕府が開国した際に長崎や浦賀にも渡っている。その資格は、イギリス使節団の通訳としてだ。しかし、自分のことを清国人だと名乗ったというから日本人であることを隠した、というより捨てたのだろう。実際、彼が日本人であることに気付いた長崎奉行が帰国を勧めたというが、断っている。

やがてシンガポールに渡って貿易業を起こして成功した。最初にイギリス人女性と結婚し、夫人が病死するとドイツ人とマレー人の女性ルイザ・ベルダーと再婚。さらに幕末の幕府使節団がヨーロッパに渡る途中シンガポールに寄った際、オットソンに会った記録もある。

彼は上海とシンガポールを往復しつつ仕事をしていたようだが、その過程で当然、マレー半島の各所にも渡ったと思われる。不確かな訪問者である平群広成や高丘親王、そして渡欧途中にマラッカに寄った人物などと違って、マレー世界に定住した最初の日本人と言えるかもしれない。ちなみに息子は、明治の日本に移り住んだ。

投稿者:田中淳夫

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