もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

〔古代偏〕 初めてマレー世界を訪れた日本人は誰か

遭難の末,たどり着いた遣唐使・平群広成

古代(古墳時代~平安時代)に、日本人が出かけた海外は、朝鮮半島と中国大陸がほとんどだろう。しかし、一部に東南アジアまで足を延ばしたと思われる人物が、わずかな資料からかいま見られる。

その一人が、平群広成(へぐり・ひろなり)である。詳しい生年はわからないが、奈良時代の役人で、現在の奈良県平群町にあった氏族と思われる。第10次の遣唐使の一員として西暦733年(天平5年)唐の国に渡った。留学生ではなく、判官(役人)だった。

無事に蘇州の海岸に着き、長安で玄宗皇帝に拝謁でき朝貢の儀を果たしたうえで、同年10月に一行は4隻の船に分乗して蘇州管内の港を出発して帰途に就いた。

ところが東シナ海上で暴風雨に遭遇し、各船は離れ離れとなった。平群広成の乗った船は南へと流されてしまった。漂着したところには肌の色が黒い住民がいたという。そこで戦闘が起きて多くが殺され、残りは捕虜となった。年月が経ちほとんどの者が病で亡くなり、生き残ったのは広成のほか3人だけだったという。この国を崑崙国としている。

やがて広成は都に連行されて王の面前に出た後、軟禁状態に置かれたが、在留していた唐の商人に助けられて脱出することができた。その後どのようなルートを取ったかさだかではないが、長安までもどることができたという。

さて、この崑崙国とはどこかが問題となる。当時の崑崙とは唐の南の地域全般を指したようだ。一般的には「林邑国」、チャンパ王国とされ、現在のベトナムとされる。しかし、異説としてマレー半島と推定する意見もある。

実際に足を下ろした土地がどこか甚だあやふやではあるが、可能性としてマレー世界に足を踏み入れた最初の日本人と言えるだろう。

ちなみに広成は、その後渤海国に渡り、さらに日本をめざしたものの再び嵐で遭難した。しかし出羽の国に漂着したおかげで帰国を果たし都にもどれた。その後は朝廷に重用されたとのことである。

南進論支えた空海の弟子・高丘親王

次に可能性があるのは、平安時代の皇族・高丘親王である。

平安朝の51代天皇である平城天皇の第三皇子として生まれ、11歳で皇太子位に就いた。しかし翌年、薬子の変(810年)により平城上皇が退位させられたことで廃嫡される。そこで仏門に入り、空海の弟子となる。「真如」と名乗って活躍するのだが、63歳の時に仏法を極めようと入唐求法を願い出て、唐に渡った。862年のことである。

皇帝にも拝謁でき唐随一の僧・法全を紹介してくれたというが、当時の唐は仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあった。高丘(真如)親王は法全との問答で満足できず、仏教の源、天竺(インド)へ向かうことを決意した。年齢を考えると驚くべき熱意と言えるだろう。

皇帝の勅許を得て、親王は従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶つ。在唐の留学僧・中〓らの報告で途中寄港した羅越国で亡くなったと報告されている。虎に襲われて亡くなったという伝承もある。

ここで問題は、羅越国とはどこにあったか、だ。今のところマレー半島南端と推定されている。どこまで信用すべきか迷うところだが、マライ世界に足を下ろした可能性はあるだろう。

忘れられた存在だった高丘親王がクローズアップされたのは明治・大正時代である。新村出(広辞苑の編者)が親王のことを取り上げ、やがて南進論が盛り上がる中、東南アジアに足跡を残した日本人の先駆者ということで注目を集める。結果的に南進論の根拠を支えた人物となるのであった。

太平洋戦争が始まり日本軍がマレー半島などを占領すると、谷崎潤一郎などが紹介し、1942年には多数の高丘親王を扱った書物が発行されている。また戦後は澁澤龍彦が親王を主人公にした小説『高丘親王航海記』を執筆して未知の世界を求めた人物として広める役割を果たした。

ジョホールバルの日本人墓地には、1970年建立の「真如親王供養塔」がある。

投稿者:田中淳夫

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