もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

〔中世編〕 大航海時代のキリシタン

ザビエルに従った布教者ヤジローとベルナルド

時代は室町時代末期、いわゆる戦国時代に飛ぶ。

この時期、海外に出る日本人は非常に多かった。交易のほか、武士としての生きる場を探す意味もあったようだ。シャム王国(タイ)で活躍したとされる山田長政は有名だが、彼の活動した地域やルートをたどると、マレー半島のシャム南部、もしかしてマラッカなどにも寄った可能性がある。その意味ではマライ世界に足を下ろしたかもしれない。

一方で「天正の遣欧少年使節」(1582~90年)も、マラッカに寄港してヨーロッパに渡ったことは確実だが、有名なので外しておこう。

それらの時代より遡ること40年前にマラッカに渡った男がいた。それはヤジロウ、もしくはヤジロー、アンジロー、洋風にアンジェロ(天使の意)とも表記される人物だ。本名は池端弥次郎とされる。

マラッカのセント・フランシス・ザビエル教会のヤジロー像(左)。右はザビエル。

彼は当時薩摩地域で船で商売をしていたというから、出自はサムライではなかった可能性もある。仕事は交易……と言っても、どうやら海賊まがいのことだったらしい。当時の水軍は交易と海賊、そして軍事行動の区別は厳密ではなかった。その関係かヤジローは人を殺し、逃げる過程で山川港からポルトガル船で脱出することになった。そして上陸したのがマラッカだ。彼は確実にマレー世界に足を下ろした最初の人物となる。

そこで紹介されたのがフランシスコ・ザビエル。キリスト教に触れた彼は、罪の意識からか洗礼を受ける。そしてザビエルとともに日本にもどるのである。

非常に聡明で知識欲があったらしく、ザビエルは彼をべた誉めしている。彼はザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍することになる。またザビエルを薩摩藩主・島津貴久と面会させることに成功している。

薩摩でヤジローの通訳によって布教を始めたザビエルだが、そこで若者を幾人か改宗させた。その一人が、ベルナルドとして名を残す青年である。本名や素性はわからないが、ヤジロ-の親戚だったとされる。とにかく非常に聡明で、彼もザビエルの愛弟子となる。ザビエルが平戸など各地を歩き、京都を訪問する際にも同行している。

ザビエルが離日するとき(1551年)、同じく彼の弟子になった長州のマテオとベルナルドを同行している。二人は、インドのゴアに渡って司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学するのだが、その旅でもマラッカ等に寄ったに違いない。

だがマテオはゴアで病死して、ザビエルも中国の布教に向かった(当地で客死)。一方ベルナルドは、ローマへ発った。そしてイエズス会の創始者ロヨラに逢い入会し、ローマ教皇にも日本人として初めて謁見したと伝えられている。

ベルナルドについて、ローマでのポランコ書記官は「持ち前の賢さ、慎ましさ、快活な性格から、彼と話したり、彼の話に目を丸くして聞いている会員らに教える所が多かった。まことにザビエル師の弟子たる面目躍如たるものがあった」と記している。

しかし、1557年にポルトガルのコインブラで病死してしまった。

一方、ザビエルが日本を出た後のヤジローについてはよくわからない。フロイスの記述によればヤジロウは布教活動から離れて海賊に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。

鹿児島市のザビエル公園内に、ヤジローとベルナルドの像も立てられている。

ローマまで自力で訪ねたペトロ岐部

室町後期から江戸初期の時代は、多くの日本人が海外に出た。その中にはヨーロッパを訪ねた人も少なくないが、ほとんどが宣教師に連れられたり公の使節団として派遣された一行である。ところが自力で、それもたった一人でローマを訪ねた人物がいる。それが通称ペトロ岐部だ。

生まれは1587年、豊後国国東(現・大分県国東市国見町岐部)で、父はロマーノ岐部、母マリア波多と両親ともにキリシタン。とくに父は、豊後国の戦国大名大友氏の重臣であった。また母の実家は宇佐神宮の神官である。

13歳で有馬のセミナリヨに入学した。ところが、1614年の江戸幕府によるキリシタン追放令によって信仰を捨てることを迫られたが拒んだため、マカオへ追放される。そこで司祭(神父)になろうとしたが、日本人は司祭叙階がかなわないとを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指す。

この時はマンショ小西、ミゲル・ミノエスという日本人も同行したという。

行路はマカオからマラッカ、そしてゴアへ船で渡っている。この際にマラッカの土を踏んだのは、1618年頃と思われる。

ゴアから岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。細かなルートはわからないが、おそらくホルムズ、バグダッドを経て、日本人としてはじめてエルサレムに入った。そしてローマにたどりついたのは1620年であった。そこでイエズス会士による審査を受けた岐部は、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭に叙階された。2年間イエズス会士としての養成を受け、1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出る。喜望峰を回り、翌1624年ゴアにたどりついた。

この時期の日本はキリシタン弾圧が強化されていたが、岐部は殉教を覚悟して日本への渡航を希望した。そのため東南アジア各地をまわった。この時期にもマレー半島に滞在したと思われる。まだ鎖国はしていなかったので、東南アジアには多くの船が行き来して比較的自由に移動できたようだ。

1630年にマニラから日本に向かう船に乗り込み、薩摩の坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町)に到着した。潜入した岐部は迫害と摘発を逃れながら、長崎、そして東北へ向かったが、仙台で逮捕され江戸に送られると激しい拷問を受けた。しかし棄教せず、最後は1639年に腹を火で炙られ殺された。52歳だった。

苛烈な人生は、幾度も小説の題材になるなどした。2007年にローマ教皇庁によってペトロ岐部はほかの日本における殉教者187名とともに列福している。

投稿者:田中淳夫

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