日本軍占領下のマラヤ TOPICS

日本軍占領下のマラヤ

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投稿者:テレジア.M.インダ.ヒロタニ

シンガポールはなぜ陥落したのか

イギリス人のおごり

1941128日、日本軍はマレー半島東岸のコタバルとシンゴラ(現ソンクラ)に上陸した。その直後、シンガポール(注1)に爆撃機が飛来した。ほとんどの人は自国の航空演習だと思い空を眺めていた。『戦争になるなんて誰も思っていませんでしたよ。だって大英帝国は強国だって信じさせられていましたからね。』(リー・キップ・リンの証言当時学生「シンガポール近い昔の話」凱風社より)

飛来する日本軍機「日本侵略馬来亜歴史図集」

 

1941年初め、イギリス本国はナチス・ドイツと戦闘状態にあり、ほとんどの軍備と兵士はヨーロッパ戦線に投入されていた。しかしシンガポールのイギリス人は、シンガポールは難攻不落であるという錯覚のまま、日々パーティーや舞踏会に明け暮れていた。

『大英帝国の軍事力に対抗できる国がアジアにあるということは、馬鹿げた考えであった。イギリス人はつねにアジア人を一等下の人種とみなし、日本の飛行機は紙と木でできていると広く信じられていた。』(「シンガポール近い昔の物語」凱風社より)

写真記録 「東南アジア3」ほるぷ社

注1)シンガポール:イギリスの植民地支配下にあり、強固な軍事基地としての役割を担っていた。

背後からの攻略

イギリスは、シンガポールの防衛の重大性は認識していたものの、マレー半島にはほとんど関心を払っていなかった。というのも地峡を下りマレー半島を縦断するという作戦は、地勢的に見通のつかないジャングル覆われているため、兵站を築くことはほとんど困難であると考えられていたからだ。
しかし日本軍は、マレー半島縦断によりシンガポールを背後から攻める作戦を選んだ。

「南船戦記」大内健二 光文社文庫

輸送車は重砲や弾薬の運搬のみに使用し、兵士は自転車で進軍し、狭い橋やジャングルの小道を通りぬける時は肩にかついで移動した。
『イギリスが舗装したすばらしい道と日本の安い自転車のおかげで、マラヤ急襲作戦は楽だった。』(辻政信中佐「シンガポール近い昔の物語」より)

写真記録「東南アジア3」(ほるぷ社)

イギリス軍は、焦土作戦(注2をする余裕もなく撤退したため、ペナンには一人の死者も出さずに入ることができた。放置された放送局、航空基地、港の船などが、シンガポールへの侵攻をよりスムーズに役立てることができた。

注2)焦土作戦:イギリスは侵略を受けて撤退する場合、敵が使用できないよう軍事・作業施設を焼却することを基本方針としていた。

日本軍は開戦から数日のうちにシンガポール周辺の制空・海権を握ったが、イギリスは、「予定の位置まで後退」という偽の情報を流して敗走を隠し続けたため、ほとんどの住民は、戦争はすぐに終わるだろうと考えていた。

ペナンから避難し、イポーで食事を支給されるヨーロッパ人
「日本のシンガポール占領」凱風社

日本人のスパイ活動

実は、日本は、かなり以前から戦争の準備を周到に始めていた。シンガポールには明治時代から日本人が住み始めており、日本軍は彼らから細部にわたる情報を収集していた。スズ・ゴム園、貿易商社、銀行、写真館、クリーニング店、雑貨店、売春宿など多岐にわたって働いていた日本人は、経済、地勢、気候、軍事施設など役に立ちそうなものは何でも集めて軍に報告した。

売春宿で有名だった日本人街
「シンガポール近い昔の話」凱風社

集められた資料は、台湾軍研究部(1940年設置)に送られ調査が行なわれた。イギリス軍は無敵でないこと、裏からの攻撃が唯一の可能性であることもわかった。熱帯気候の状況を確かめるために、大規模な演習が中国の海南島で行われた。

「大本営が震えた日」吉村昭 新潮文庫

親日インド人の組織化

また、英軍インド兵の日本軍への寝返り作戦もあった。開戦前、藤原岩市少佐注3)は、タイでインド独立連盟の幹部モハン・シンと接触しており、シンガポールでインド独立同盟を結成させた。さらにチャンドラ・ボース注4も日本の後ろ盾によってマラヤ注5)に入り、「アジアは一つ」と熱狂的な演説をくり広げて、インド人大衆の心をつかんでいった。インド国民党(注6)には約2万の投降兵と、1万の住民が志願した。

注3)藤原岩市:南方軍参謀の特務機関(F機関)の長。インド国民軍を創設。戦後は自衛隊に入隊。全国戦友会々長に就任。

注4)チャンドラ・ボース:反英独立運動家。武力行使を唱えインド国民会議を脱退。日本の援助による独立を目指した。

注5)マラヤ:マレーシアの英植民地時代の呼称。マレーともいう。

注6)インド国民党:インド独立同盟の軍事部門。チャンドラ・ボースが総指揮官をつとめた。

投降したインド兵 「日本侵略馬來亜歴史図集」

日本軍は東西から南下し、1月末には南部ジョホールに結集した。シンガポー攻撃は翌年2月8日深夜に始まる。抵抗は思いのほか激しかった。シンガポール北部海岸を守っていたのはダルフォースと呼ばれる華僑義勇軍で、彼らは訓練も装備も不十分でありながら勇敢に戦い「命しらずのダルフォース」と称された。彼らによって日本兵は多数死傷した。

「マレーシア」梨の木舎

降伏の原因

日本軍は、砲弾も兵士もイギリス軍に比べてはるかに少なかった。しかし驚いたことにパーシバル将軍注7)は、早くも一週間後に降伏を申し出た。給水管が破損したこと、食料の備蓄が少なくなったこと、兵士が戦意をなくしたことが主な理由だった。

しかし実際は指揮官の判断ミス、訓練不足の寄せ集め部隊、そして結局パージバルは山下[将軍](注8)ほどの軍人としての器量がなかったからであると「シンガポール陥落」の著者フランク・オーエン氏は指摘する。イギリスの公式戦史には『日本軍は戦術においても、また戦略においても勝っていた。』と書かれている。

投降するイギリス兵

注7)パーシバル:イギリス極東陸軍マレー軍司令官

注8)山下奉文将軍:マラヤ・シンガポール攻略に当たった第25軍司令官。満州・フィリピン司令官を歴任。

『自分たちより劣位であると見なしていたアジア人の敵の面前で、ヨーロッパ人が退却していった光景は、やがて民族意識の高揚につながっていった。』と「日本のシンガポール占領=昭南島の三年半」の編纂者リー・ギョク・ボイ氏は言う。

日本占領時代の始まり

シンガポール陥落のニュースは日本中を狂喜させ、国民の戦意はさらに高揚していく。日本軍は、英軍捕虜を収容所に送り、そして直ちに華僑粛清を始める。シンガポール史上最悪の「暗黒の三年半」が始まったのだ。

シンガポール陥落の日本の記念切手

投稿者:テレジア.M.インダ.ヒロタニ

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