もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

〔近代編Ⅱ〕 ボルネオの開拓めざした人々の運命

サラワク王国で植民目指した日沙商会

マレー世界への日本人の移民は、半島だけでなく島嶼部にも多かった。その一つが当時“南洋の秘密国”と呼ばれたサラワク王国である。当時、ボルネオ島北西部は、当時イギリス領となっていたマレー半島とは別個の国だった。と言っても王(ラジャ)となっていたのはイギリス人である。だからホワイトラジャと呼ばれていた。

サラワク王国について簡単に紹介すると、東インド会社所属の海軍少尉だったジェームズ・ブルックが、1839年に武装帆船ロイヤリスト号でサラワクへ向かったのが始まりである。当時のサラワクはサルタンの下で総督ハシムが統治していたが、反乱が起きていた。そこでハシムは、ブルックにラジャの称号と土地の割譲を条件に反乱鎮圧を依頼、ブルックは鎮圧に成功して手に入れた土地に自らの王国を築いたのである。最初の領土は小さかったが、徐々に広げ、サラワク全域を我が物としていく。外交権はイギリスに委任したので保護国的な位置づけであった。(当初のサルタン国は、現在のブルネイ王国である。)
1867年、二代目の王チャールズ・ブルックが即位して国としての行政政治の制度を整えていく。1917年には三代目のヴァイナー・ブルックが即位した。

ブルックのサラワク王国、初期の宮殿

 

1910年(明治40年)に南洋でゴム事業を起こすために依岡省三がサラワク王国を訪れる。依岡は高知県出身だが、南洋で事業を夢見てさまざまな島を渡り歩いた。そして鈴木商店や台湾総督の後援を得てゴム事業を起こすためサラワクを訪れる。首都クチンに到着するとクチン商会(後の日沙商会)を設立。知事に面会して土地の租借を願い出た。ところが省三は帰国途上に病死してしまうのだ。

そこで実弟省輔が継ぎ、1000ヘクタール以上の土地を租借し開墾して農園を広げていくのである。やがて日沙商会は株式会社化されるが、サラワクでは唯一の邦人企業として発展していく。ラジャの信頼が厚かったようだ。ゴム栽培に留まらずゴム加工も行っていくのである。

ただ、この日沙商会は鈴木商店の傘下に入っていたようだ。省輔は、経営を委託されていたようである。また社員の独立も認めてゴム園経営を広げた。36年の調査では、日本人経営のゴム園は30カ所、7524エーカー(約3000ヘクタール)にまで膨らんでいた。その後、米栽培やパイナップル栽培も行った。
当時の日沙商会は、日本の領事館的な役割も果たしていたようだ。いかにサラワク政庁の信頼があったかわかる。ラジャ三世は商会の招きで昭和4年に来日している。

ラジャ三世は日本人移民を歓迎する意を表明した。当時サラワクは米不足で輸入していたので、日本人に水田を開いてほしかったのであった。そして沖縄移民団が数次に渡って送り込まれる。さらに北海道移民も行われた。だが肝心の移民の中に米づくりの経験者がほとんどいなかったために失敗に終わったようだ。

それはともかく、日本とサラワクの関係は、依岡省三・省輔によって切り拓かれたのであった。日沙商会とブルックの王国が崩壊したのは、日本軍が攻め込んで占領した1942年である。

 

北ボルネオの缶詰工場と日本人社会

ボルネオ島の北半分には、サラワク州とブルネイ王国に加えてサバ州がある(現在、マレーシア連邦東マレーシアと呼ぶ場合には、ブルネイ王国は省く)。サバ州はもともとフィリピン南部のサルタンの領土とされていたが、イギリスに割譲されて「北ボルネオ」と呼ばれる植民地となった。サラワクがゴム農園や水田などの農業展開が主流だったのに対して、北ボルネオ(サバ州)に植民した人々が取り組んだ人々の特徴は、農業に加えて漁業に挑んだことだろう。

1903年にセンポルナ(現在のサバ州西岸)近海の小島で真珠の養殖と、タワオ沖合のセパンティック島から木材を伐りだして輸出を企てた旭商会の増田幸一郎という人物がいたらしい。また安谷喜代次が1912年にサンダカン港の対岸でココナツヤシの農園を開いたとされる。ほかにも出口金二、坂本一之助といった人物がココ椰子やゴムの栽培に挑戦したという記録が残るが、はっきりしない。
そしてサバ州の都であるサンダカンと言えば、「サンダカン八番娼館」で知られる通り、多くの日本人女性がからゆきさん(娼婦)として滞在していた。

しかし、ここで取り上げたいのは、もっとも成功したと言われるシアミル島のボルネオ水産である。
シアミル島は、センポルナからスラウェジ島へと続く小列島の一角で、周囲4キロしかない小島だ。その周辺にあるシパダン島、マブール島などは、現在ダイビングの天国とされてリゾートコテージも立ち並んでいるが、当時は無人島が多かった。シアミル島もその一つだ。そこに日本人が入植して、作り上げたのがボルネオ水産である。漁民の主流は沖縄漁民だった。

ここに港桟橋をつくるとともに漁船群が送り込まれ、主にカツオやマグロ類を漁獲した。そしてカツオはカツオ節に加工される。さらに缶詰工場が建設されてシーチキン缶詰の生産も行われた。工場ではバジャオ族など現地住民も雇われたという。また缶詰は日本だけでなく欧米にも輸出された。その規模は年々大きくなり、日本人の人口も膨れ上がった。多くは夫婦・家族で住んでいたようだ。なお工場では施設管理のイギリス人も雇用していたらしい。

もちろん水産だけでなく、対岸のタワオでも木材開発や農園開墾も進んだ。日産農林では大規模なマニラ麻農園を開いた。この地域に日本人は1700人以上入植していたらしい。日本人の小学校ができるなど日本人社会が建設されていたのだ。現在のタワオ周辺と言えばサバ州の東端のイメージだが、当時は日本入植者の一大拠点であった。日本から見ても、タワオ近郊はブラジルと並ぶ大規模な移住地と捉えていたようだ。

だが、1941年3月にシアミル島の工場は火事を出して焼け落ちてしまう。再建も進まないうちに12月8日を迎えて開戦。北ボルネオはイギリス領だけに難しい立場に陥った。当初は、多くの日本人がイギリス軍によって収容されたらしい。
やがて日本軍は北ボルネオにも侵攻した。そこで入植日本人も解放されるが、軍政下に置かれるようになった。そして大半の人々が帰国することになる。

やがて戦況が日本軍に不利になるにつれて、北ボルネオと日本の連絡もままならなくなり、船も多数沈められた。かくして、ボルネオ水産も日本の移民社会も消えたのである。

「シァミル島 北ボルネオ移民史」(松本國雄著)より。1936年撮影)

 

カリマンタンの日本人村と植民企てた南極探検家・多田恵一

戦前、ボルネオを探検したり植民計画を練った日本人は幾人かいる。そのなかでも異色の人物が多田恵一である。彼が目指したのは、もともとボルネオではない。南極だった。

多田恵一は、岡山県御津郡江与味村(現在は久米郡美咲町)の農家に1883年に生まれた。多田は騎兵第十連隊に入営し、日露戦争に従軍。除隊後は満州やモンゴルの探検を企てていたと言われる。ところが1910年に新聞に発表された白瀬矗の南極探検計画を新聞で知って、白瀬の元を訪ねた。すると白瀬と意気投合、目標を南極に変えるのである。そして白瀬の隊長秘書となり、計画の遂行を支える。(出発してからは書記長になる。)

多田の南極探検記に掲載された多田の写真

白瀬隊は開南丸で南極に出発するが、初年度(1911年)は到着が遅れて氷に阻まれ南極海には入れなかった。そこでオーストラリアのシドニーで越冬することになるが、越冬資金がなく公園に野宿する有り様で、多田と船長・野村は日本に一度帰って資金集めに奔走した。そして再びシドニーに戻るものの、多田と白瀬は仲が悪くなっていたようだ。一時、隊員を罷免されている。南極大陸上陸後も、多田は沿岸調査に回されてしまった。南極大陸から引き揚げた時も、白瀬は一足先に客船で帰国。開南丸に残された多田は激怒して告発文を書いている。

 

帰国した多田は、目を南洋に向け、東南アジアやニューギニアに移民を送り込む事業を起こした。その視察で1916年にボルネオに出かけたのである。
向かったのは、オランダ領西カリマンタンのポンティアナから川を遡った奥地だ。この川の上流はサラワクの国境地帯だが、どこまで遡上したのかははっきりしない。
驚いたことに、その奥地に日本人村があったという。約20人ばかりの日本人が森を切り開いて集落を建設、田畑を開墾するほか先住民相手の交易をしていたという。彼らの素性についてはまったく情報がない。

多田はそこを拠点に70日間滞在して、イバン族の村を訪ねて習慣や生活について調べ歩いている。着ている服や食事、食器、住居、トイレ、結婚制度、戒律、焼畑、狩猟の様子まで、民俗的な記録を残している。またダイヤモンドの採集法や、ラジャ(酋長)の状況、そしてポンティアナを中心とした商工業や農林業についても調べていて、植民の手引きのようでもある。さらに奥地を目指してカッバース川を遡る旅も行った。

多田の著作・富源実査 南洋西ボルネオ(カリマンタン)より。

帰国したのは1917年。いよいよ植民を企てた「南洋開発社」を設立した。発起人には玄洋社の頭山満の名前もあり、わりと大がかりな組織のようだが、オランダやサラワク王国に植民するための打診をした様子はない。結局、植民計画は頓挫する。

なお1940年に、農林省と組んで再び南極探検を行う「開南探検協会」を設立した。しかし日米が開戦すると、「開南義塾」を開いて、熱帯地域で活動する人員養成に当たっていたようである。
極地と熱帯という極端に違う地域を行ったり来たりした多田であった。

 

投稿者:田中淳夫

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