もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

特別編・広島で被爆した王子オマール

これまで歴史的なマレー世界を訪れた日本人を紹介してきたが、特別編として日本に来たマレー人を紹介したい。その一人がテュアン・サイド・オマールである。

オマールが日本を訪れたのは、南方特別留学生としてであった。これは1943~44年に2回に分けて当時日本軍が占領していた東南アジア地域から若者を日本に留学させて教育する、という大東亜共栄圏構想の一環に設けられた制度である。
留学生は現在の国で言えばマレーシア、インドネシア、ブルネイ、タイ、フィリピン、ミャンマーからであり、総勢205人。各地の有力者や政治家の子弟などが選ばれた。そのうちマレー半島からは12人、北ボルネオから2人いた。留学生は、各地の専門学校や高等師範学校で学び大学をめざした。

オマールは、ジョホール・バル出身で当地のサルタンの一族だった。つまり王族である。彼が16歳のときに留学生に選ばれて日本に渡ってきた。地元で日本語教育を受けていて、すでにかなりマスターしていたという。留学生は日本各地に分散したが、もっとも数が多くて、オマールも入学したのは、広島高等師範学校の特別コースだった。

45年8月6日も、広島に滞在していた。この時期の広島には留学生が9人いた模様だ(マレー出身者は3人)。ほかにも中国人留学生もいたという。そこへ原子爆弾の投下される。みんな教室か留学生寮(広島市大手町)において被爆した。
マレー出身のニック・ユスフは市内五日市で死亡した。ほかの留学生は元安川岸に避難し、学校の校庭で野宿生活を送ったという。また比較的軽傷であった者は他の被爆者の救援活動に従事した。オマールは半身を火傷していて熱を出していたという。
ほどなく終戦後。留学生はみな東京に集結することになったが、オマールは体の不調を訴え京都で下車して京大病院に入院する。そして9月初めに死去した。
彼の遺体は京都の大日山に埋葬されたが、彼らの存在を知った有志が1960年に左京区修学院の円光寺に墓をつくって埋葬し直した。今も円光寺にはイスラム式の石墓が設けられてある。ここにはオマールの家族のほか、歴代の大使館やマハティール首相も参ったことがあるそうである。

京都の小学生がオマールの墓から当時の事情を調べた記録。

投稿者:田中淳夫

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