戦跡と追悼碑をめぐる旅 TOPICS

戦跡と追悼碑をめぐる旅

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投稿者:南里章二

ネグリセンビラン州の追悼碑を訪ねて3

スンガイルイ村ー埋もれていた集団墓

ネグリセンビラン州の東北端、現在ここにはマレー鉄道の線路だけが通っているが、かつてスンガイルイという村と駅舎があった。

スンガイルイ駅があった場所

その南30数キロの地点にバハウというの駅がある。1942年8月19日この駅から列車に乗り込んだ日本軍第7中隊の兵士がスンガイルイ駅に降り立った。この周辺には鉱山があったので、中国人労働者とその家族たちが多く住んでいた。

バハウ駅 2017年

日本軍は機関銃を携えたインド人シーク教徒の警察官を使って、周辺に住む住民を駅前広場に集め、中央に中国人、マレー人は広場の端にと分けた。日本軍がスパイとして使っていたマレー人が、この周辺で抗日ゲリラに拉致されたというのである。日本軍は中国人に対して首謀者は名乗り出るか、もしくは差し出せと迫ったが誰も答えなかった。すると機関銃を乱射して次々と彼らを殺害した。

その後民家に押し入り、片端から住民を虐殺して家々に火を放っていった。銃剣を背中でかばってくれた母親のおかげで無事生き残った幼児、その時たまたま現場に居合わせなかった住民たちは、激しい銃声とけたたましい悲鳴を聞いたと後に証言している。日本兵はその日のうちにバハウに戻った。スンガイ村はこのようにして全滅した。

中国本土での戦線が泥沼状態に陥っていた日本軍は、華僑に対する憎悪をむき出しにしてマレー半島にやってきた。ここではマレー人やインド人に粛清の片棒をかつがせた。「アジアの独立と平和」とう虚言の下で、民族の分断を図り、ひたすら己の利益を求めて凄惨な弾圧を無差別に繰り返していたのが日本軍の実際の姿だった。

発見された集団墓「東南アジア3」ほるぷ社より

1947年に、368名の遺骨が集められて集団墓が建立されたが、遺族が亡くなったり移住したために、墓の存在は次第に忘れ去られていった。30数年ぶりに樹木で覆われていた墓が発見された時は、大ニュースとなり、千名を超える人達が集まり慰霊祭が取り行われた。その後ここ一帯は、マレー人の農地開発用地になったが、幸いにもマレー住民の協力によって墓の移転は免れた。現在の墓は新しく整備されたものである。

現在の集団碑 2017年撮影

スンガイルイ村だけではなく、周辺のパリティンギ、ティティ村などでも同様の虐殺事件が起きていた。当時朝日新聞特派員だった松井やより氏は次のような記事を発信した。

1984年8月10日付 朝刊

マレーシアでも日本軍残虐事件-謝罪・補償を求める動き相次ぐ

[セレンバン=松井特派員]

マレーシアで太平洋戦争中の日本軍による虐殺事件が40余年目に改めて暴かれ、日本政府に対する謝罪・補償要求や記念碑建立などの動きが相次いでる。先月ネグリセンビラン州スンガイルイの虐殺跡が発見されたのがきっかけで、4500人近くが殺されたとされるマレー半島最大の虐殺事件があった同州ティティの住民が今年はじめ補償を要求、さらに675名の犠牲死者を出した同州クアラピラの虐殺事件記念碑も完成、10日に除幕慰霊祭が行われる。東南アジアで日本の戦争責任追及が表面化したのは、60年代半ばの血債問題以来20年ぶりのことである。

先月はじめ、ネグリセンビラン州バハウから北へ52キロのジャングルで、368名の犠牲者を葬った墓碑が発見された。1942年10月8日、虐殺事件で全滅したスンガイルイ村のあった地点である。わずか数名の生き残りの一人蘇天送さん(67)=バハウ在住=は「日本兵に後ろ手にしばられ、家の中につれていかれた。銃声と悲鳴が聞こえたので必死にひもをとき、窓から逃げ出した。夕方、村に戻ると頭や手足がもぎ取られた無残な死体が散乱し、家は全部焼かれていた」と証言する。

草に覆われていた廃墟の村にうずもれていた墓碑が30数年ぶりに発見されて、千人をこえる遺族関係者が慰霊祭を行った。また華人系の与党マレーシア華人協会(MCA)と野党の民主行動党(DAP)のバハウ地区代表がそれぞれ日本大使館を通じて、謝罪、記念碑建立、保証金(1千万マレーシアドル訳10億円)などを要求している。

このスンガイルイの動きに刺激されて、1474人が虐殺されたネグリセンビラン州セレンバンの北東約50キロのティティ住民も1日、日本大使館あてに500万マレーシアドル(約5億円)の補償請求書を出した。

日本政府は、67年のマレーシア政府との協定で賠償問題は「完全化かつ最終的に解決ずみ」と支払いを断っていたが、ティティ住民が基金を集め、一部民間日本人も寄付して79年に記念碑が完成。毎年春の清明節に慰霊祭が行われている、という。

スンガイルイからセレンバンへの途上にあるクアラピアの華人墓地内に記念碑が完成していた。近くのパリティンギ村で1942年3月16日、日本軍に殺された675人(成人426人、子供249人)をまつるために、10数人の生き残り村民の一人シャオ・ウンフーさんらが建てたものだ。

1942年に相次いで起こったこの三つの虐殺事件は、中国大陸での三光政策(殺し尽し、焼き尽くし、奪い尽くす)がマレー半島でも行われていたことを示している。

(1984年8月10日 東京版朝刊)

1988年、日本の市民団体によって「アジア・太平洋地域戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」の集会が日本各地で開催された。ネグリセンビラン州の村からも5人の犠牲者が来日して証言した。その中の一人は「刀傷は治りますが、心の痛みは治っていません。決して忘れられません。」と涙ながらに叫んだ。この時期になって日本国民はようやく戦争の加害についても考えるようになった。現在も毎年、市民団体(アジアフォーラム横浜)が生存者や遺族を招いて証言集会を行っている。

 

南里章二 記

投稿者:南里章二

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