もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

投稿日:

投稿者:田中淳夫

〔近代編Ⅲ〕 マレーを訪れた芸術家たちの隠れた理由

1、軍事探偵としてマレーを訪れた彫刻家・朝倉文夫

マレー世界を訪れたのは、無名の人ばかりではない。高名な文学者、芸術家もマレーを訪れている。ただし、その動機は今では考えられないものであった。
朝倉文夫は、明治から昭和にかけて美術界で活躍した彫塑家だ。「東洋のロダン」と彫塑界で称賛されて、従三位、勲四等瑞宝章を受章、戦後は文化功労者、文化勲章まで受賞している。

そんな彼が1910年、突然マレー、シンガポール、ボルネオ、ブルネイなどを訪れている。約8ヶ月間の滞在だが、各地を見聞して、南洋の風景に刺激を受けたようだ。シンガポールでは家を借りてしばらく住み、ライオンの置物の製作にも勤しんでいる。また帰国後も経験を活かして「土人の顔」などの塑像を製作した。芸術家として、この紀行は稔り多かったようである。

だが、この南洋紀行は、単なる観光旅行、あるいは作品づくりの糧とするために行ったものではなかった。晩年の朝倉の手記『航南瑣話』によると、実は井上馨に依頼されて行った軍事スパイの任務を担っていたことを告白している。それも無理やり命じられたのではなく、朝倉自身の提案によってなされた行為だった。

密命を帯びた朝倉文夫の手記

もともとは朝倉の友人である船員の話だった。彼は訪れたマレーで現地の人々と会い日本人と知ると、みんな白人排斥を訴えてくるのだった。それに心打たれて、マレー独立のための運動を始めていた。その話を聞いた朝倉が、親しかった政治家井上馨に伝えると、井上は桂太郎首相や寺内正毅外相、平田東助内相らと密議し、朝倉に詳しく現地の事情を調べるように命じたのだという。そして朝倉自身も訪問することにしたのという。

朝倉は、横浜を出発してまずブルネイを訪れた。当地のラジャ(王)を始めとして日本とつながりを求めている有力者と接触する。その後いったんシンガポールに渡るが、そこでジェマジャ島のラジャに招待されてアナンバス諸島に滞在した。それから再びシンガポールを経由してブルネイに渡っている。ブルネイ滞在中には、イギリス人官憲に不信がられて呼び出されて尋問も受けたそうである。

帰国後の報告では、日本が南洋で勢力を伸ばすにはゴム園経営が有望で、小学校を建設して現地の子どもたちを日本流に教育すべきとした。さらに領事館を建設して、現地人と親密になり協力すること……などと4つの提案を行っている。
一方で「南洋における日本の真の発展性は、結局戦争以外に解決の道を見出せない」という記述もあるのだった。

芸術家も時流には逆らえなかった、いや自ら時流に飛び込んで行ったのである。

 

2、マレーを無銭旅行した金子光晴らと支えた人々

詩人として知られる金子光晴の著した「マレー蘭印紀行」(1940年出版)は名作として名高い。美しい風景とマレー社会の描写は今読んでも人々の心に染み、この本を頼りに東南アジアを放浪する旅人がいるほどだ。

詩人・金子光晴の代表作

 

だが、金子がなぜマレー(と蘭印、インドネシア)を訪ねたのか、この本には理由を詳しく記していない。実は、妻で作家の森三千代が大きく絡んでいる。
三千代は、金子の元から別の男の元へ走ったのである。金子は、その男から三千代を取り戻すべく、パリへ行く話を持ちかける。フランス・パリに憧れる三千代は金子とともに行くことを了承するのだが、問題は金がないことだ。当時東京から名古屋までの運賃しかなかったという。それでも金子は各地で借金を重ねて、長崎から上海へ向かった。1928年9月のことである。さらに現地の日本人の世話になりながら香港、シンガポールにわたることに成功した。そしてなんとか一人分のフランス行きの船賃を用立てて、先に三千代だけ送り出した。

金子はホッとしたのか、それからマレー半島やジャワ、スマトラなどを回る旅に出る。とくにジョホールのゴム園と日本人の経営するスリメダンの鉄鉱山で長居した。これが「マレー蘭印紀行」の主要な記事となる。彼自身がパリに向かったのは、ずっと後だった。
しかし文無しの金子は、マレー社会でどのように金を稼いだのだろうか。その当たりは本にはあまり詳しく記されていないが、彼のほかの著作などから推察するに、現地の邦字紙に記事を書いたり、絵を描いては売る生活を送っていたようである。いわゆる旅絵師として各地を回りつつ、旅費と生活費を稼いでいたのだ。彼は詩人であるだけでなく、絵心もあったのである。

このような旅絵師生活を送る日本人は、金子だけではなかったらしい。森三千代は、シンガポールに滞在した話を後に「新嘉坡の宿」として記したが、そこに売れない無名の放浪画家が登場する。シンガポールでホテルを経営していた人物が、宿に滞在している油絵の画家のために日本人倶楽部で展覧会を企画したそうである。そこで画家は一週間で30枚近くの絵を描いて売ろうとしたのだという。
三千代と金子も、画家を持ち上げる提灯記事を南洋日日新聞(現地邦字紙)に書いたという。ただ絵はほとんど売れなかった。結局、買ってくれたのは、展覧会に来た領事館や大手会社の駐在員ではなく、下町で暮らす在留邦人だった。当時のシンガポールには、意外と多くの日本人が暮らしていた。雑貨商や洗濯屋、大道芸、そして娼婦などだ。彼らが貧乏画家に同情して絵の価値に関わらず買って上げたのだろう。

だから金子も同じことを各地で行ったことは間違いない。
たとえばシンガポール日報社の好意で金子の絵の個展を開いて即売したことや、スラバヤでは現地にいた松原晩香の世話で展覧会を開いた記録が残っている。
その際も現地滞在の日本人が買ってくれたらしい。つまり三千代の描いた貧乏画家と同じ状況だったのでろう。

金子は、その後なんとかパリに渡れたのだが、パリでも貧窮生活を送る。それでも約二年間を過ごして、ようやく帰途に着く。結局四年間にもわたる旅となったが、彼の心に残ったのは、パリよりもマレーだったようである。

現在、日本を飛び出したバックパッカーなどが東南アジアに多く滞在している。なかには仕事を見つけて住み着いた日本人も少なくない。企業の駐在員だけでなく、市井に溶け込んでいる。だがそれは豊かになった戦後の風俗ではなく、戦前から同じような人々はいたのである。そんな彼らにとって、マレー社会は、貧しくはあってもなんとか暮らせる温かさのある土地だったのだろう。

 

投稿者:田中淳夫

田中淳夫の詳細を見る