もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

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投稿者:田中淳夫

戦中編 学者と従軍記者が見たボルネオ

戦中のボルネオに赴任した土方久功と鹿野忠雄

マレー世界は、現在でも動植物、そして民族学の研究家にとって魅惑的な土地である。戦時中に研究者としてボルネオを訪れた人物を二人紹介しよう。

まず「日本のゴーギャン」と呼ばれた土方久功である。
1900年生まれの土方は、東京美術学校彫塑科に入学するが、29年にパラオ諸島に渡り、図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島のほかヤップ島の民俗調査を行った。さらにサテワヌ島に渡り7年間を島で暮らした。その後、パラオにおかれた南洋庁に勤務しつつ、トラック諸島やポナペ島、クサイ島、ヤルート、サイパン島、ロタ島などの調査を行っている。こうした南洋群島を渡り歩く過程で、土方は芸術家だけに留まらず、民族学にも傾倒していったようである。

しかし42年に帰国すると、すぐに政府の企画したボルネオ調査団に参加し、占領下の北ボルネオ(サバ、サラワク、ブルネイ)の調査に従事した。そして陸軍のボルネオ司政官に任命を受けたという。各地を調査して回りミリ県(サラワク北部)の知事を打診されたが断り、結局クチン(サラワクの首都)のボルネオ博物館と図書館の館長を命じられている。
だが望まぬ仕事のせいか体調が悪化し、シンガポールの病院に入院した。そして44年にかろうじて帰国することができたのである。戦後は彫刻家や詩人として活躍するが、一方で南洋の民族誌も発行している。

 

鹿野忠雄は、東京で1906年に生まれ、昆虫が好きな少年時代を送るが、一浪して台湾の高等科に入学した。やがて昆虫ばかりではなく鳥類や動物にも興味を向けて採集を行う。さらに哺乳類、爬虫類、両棲類、そして魚類と幅広く調査を行い、地域の動物相(ファウナ)、さらに植物も調べて植物相(フローラ)も研究対象にした。また先住各民族の習俗・文化についても造詣を深めていく。昆虫学から動物学、そして民族学へと幅を広げていったのである。

山崎 柄根 による評伝。平凡社

 

鹿野は、台湾高校を卒業後、東京帝大に進学する。選んだのは地理学科だった。そして大学院在籍のまま台湾総督府に勤務することになり、台湾の先住民の研究を行った。徐々に生物学から民俗学へと研究対象をシフトしていった。
台湾の山岳地帯を踏破して未踏峰の登山にも挑戦したという記録もある。そして圏谷(カール・氷河地形)を発見した。これは数万年前の氷期に台湾も氷河に覆われていたことを示す世界的な発見となった。しかし、時代は戦時色を濃厚にしていく。

1942年、鹿野は陸軍からマニラ行きを打診された。占領したフィリピン統治のための文化的施策のためだと言われている。鹿野は、フィリピンと台湾の民族学的研究に勤しむが、抑留されていたアメリカ人研究者を解放するほか博物館に収蔵されている文化財の保護まで手がけている。

その後一度東京にもどったが、44年3月には北ボルネオへの赴任が決まった。実は病に倒れた土方久功の後釜だったらしい。だが戦局は悪化し、アピ(現・コタキナバル)に到着できたのは8月のようである。
もはや危機的状況であったが、それでも鹿野は後輩の金子総平らとともに少数民族の調査に従事している。この調査の目的は、現サバ州の西海岸と東海岸をつなぐ要路の確保ということになっていたが、彼らは戦時下でも民族学研究を行うことに意欲を燃やしていたのである。

だが戦況がますます悪化する中、鹿野と金子は45年7月15日に内陸のタンブナンから司令部のあるサポンへ向かった。これは調査ではなく現地召集にあったからだ。つまり兵隊になったのだ。ところが、そのまま行方不明になってしまう。

おそらく各地に出没する反日ゲリラに襲われたのだと思われる。ただ、憲兵に殺されたという説もある。ケニンガウの町は空襲で焼け落ち、憲兵は殺気だっていたことから、民間人をスパイ容疑で連行し、暴行死させるようなことが多かった。鹿野らも、こうした事件に巻き込まれたというのである。この説は当時北ボルネオに抑留されていたり戦後進駐した英国軍人などが得た情報として伝わったとされる。逆に言えば、敵側の英国人に惜しまれるような人柄だったのだろう。姿を消した時の鹿野忠雄は、39歳だった。

命じられるままボルネオに渡った土方と鹿野。いずれも戦争という国家の意志に巻き込まれて行ったのである。

 

従軍記者・里村欣三と堺誠一郎

戦時中、占領地に渡ったのは兵隊だけではない。従軍記者として報道のために軍隊とともに戦地を歩いた人々がいる。その中でも出色なのが、里村欣三である。
陸軍報道班員として開戦と同時にマレー半島上陸し、シンガポール、ボルネオと渡る。だが戦闘シーンも描かず日本軍の軍政を賛美することもない。ボルネオでは現サバ州の大河キナバタンガン川をさかのぼり探検しているのだ。
その記録『河の民』は、大自然と民族、そして美しい風景を描いた名文である。木々に群れる野猿にオランウータン、大蛇やワニを目撃した話もあれば、少数民族の結婚式に出席して見聞きしたさまざまな風習を記録もある。地元民から昔話を聞き取ったり、ジャングルの暗がりにいる“アントー”と呼ぶ河童?精霊?の話を水夫から聞いたり。また三菱調査団と同行もした。イギリスが各地に開いた農園も訪ねている。
よく戦時中にこんな行動が取れたものだと思うが、当時のボルネオ奥地は人跡未踏の秘境といっても良い場所で、日本軍部の目もあまり届かなかっただろう。

なかでも興味深いのは、以下のような記述があることだ。
日独混血のシェヤーマンが里村に忠告したのは、里村が「人夫の取扱いに親切すぎる」ことだった。西洋人は決して里村のようには親切に扱わない。「なぜなら、あまり必要以上の親切さは、却って人夫をつけあがらせる結果になる」からだという。
里村が地元の民に優しく接し、彼らの食事や寝場所のことを心配したり、お金なども多めに払っていたことを注意されたのである。それではうまく統治できないことを指摘したのだ。しかし、里村は言い放つ。
「人夫がつけあがる――それも私の研究題目の一つだ!
私の親切に対して、彼らが裏切者-それも素晴らしい人間研究ではないか!」
白人の植民地政策とは違うんだ、という思いを持っていたのだろう。

里村は、1902年岡山県の現在は備前市に生まれた。本名は前川二亨。その経歴は異彩を放っている。単なる新聞社や出版社の従軍記者ではなかった。
徴兵されて岡山歩兵第10連隊に入営するが、3ヵ月後に遺書を残して脱走、軍服を海岸に捨てて水死を装い満州に逃れたのだという。13年に密かに帰国、前年の関東大震災で戸籍が焼けてしまったことにして別人となり、結婚もした。そして「文藝戦線」や「中央公論」「改造」などのプロレタリア文学の雑誌に執筆する有力な作家となった。
だが特高に「主義者」として追い詰められ、素性がばれないうちに35年に自首、再び徴兵検査を受けて第二補充兵となった。その後、一度は除隊するが、37年に日中戦争に招集されて大陸に送られるが、太平洋戦争がぽっ発すると従軍記者に抜擢されるのである。やはり文学的才能を認められたからだろう。

里村は、45年2月、敗色濃いフィリピンへ従軍する。そしてバギオで爆弾に当たり戦死。42歳だった。

 

陸軍報道班の里村欣三と、堺誠一郎の記録

 

なお里村と仲がよく、一緒に従軍した記者の一人に堺誠一郎がいる。彼は中央公論社の社員として「中央公論」の編集部などに勤務していたが、報道班としてマレー半島やボルネオを歩いた。多くの行程で里村と同行していたが、キナバタンガン川をさかのぼる里村に対して、彼はキナバル山の山麓に向かった。その後、フィリピンに送られ戦死するところまで里村と同じである。
その紀行記「キナバルの民」も優れた記録だ。キナバル温泉で楽しんだり、少数民族の伝説を聞き取ったり。重なるので割愛するが、こうした文学者の従軍記録も、今となっては当時の民俗・社会・自然などの貴重な記録となるだろう。

投稿者:田中淳夫

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