もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人 TOPICS

もう一つの日マ交流誌 ―マレー世界に渡った日本人

投稿日:

投稿者:田中淳夫

戦前~戦中編 虎退治の殿様と虎になった怪盗

「トラ退治」を行った殿様の本当の姿

戦前、マレー半島でトラ退治をした、と勇名?を馳せた殿様がいる。徳川義親だ。名字からわかるとおり、徳川家一門の出。正確には尾張徳川家の19代当主である。もっとも、生まれは越前松平家で松平春獄の子だったが、尾張徳川家に養子に入った。

1918年に徳川生物学研究所、また23年に藩史研究のため徳川林政史研究所、31年には徳川美術館を設立するなど学究・文化に力を入れた人物として知られるが、一方で北海道の徳川牧場で熊狩りを好んでしたことでも有名だ。そして1921年にはマレー半島に虎や象狩りを行った。そのため「虎刈りと殿様」というあだ名がつく。

もっとも内実をいえば、当時勤めていた学習院でひどいじんましんにかかり、転地療法を勧められた。そこでマレー半島に行くつもりになったのである。ところが、それを知った朝日新聞の記者が「虎退治にマレーへ」という記事を書く。おそらく北海道の「熊狩り」にヒントを得てでっち上げたのだろうが、この記事はマレーにも伝わった。そこでジョホールのサルタンに挨拶に行ったら、すでに虎狩りの準備をして待っていたという。

引っ込みがつかずに、それから虎刈りを敢行。二日がかりで仕留めたという。そして虎の肉を試食した。これは美味かったそうだ。かくして「熊狩りの殿様」「虎狩りの殿様」と称された。

もっとも、これで終わったわけではない。この旅の顛末を「じゃがたら紀行」として本にしたら大人気を呼んだのである。そしてマレー通で通ることになった。そして時を空けて、太平洋戦争が始まると、マレーの宣撫班として殿様は赴任するのだ。どうやら現地事情を知らないまま占領政策を行う東条英機に業を煮やして、自ら志願したらしい。

1942年2月、善親はシンガポールに赴任した。地位は、最高軍政顧問である。地元でも「虎狩りの殿様」で有名だったため、喜ばれたようだ。

そしてラッフルズ博物館の館長まで引き受ける。これは昭南博物館と名を変えられるが、問う.時のマレーの文化遺産の収集物を守るために奔走した。軍人にとって博物館の所蔵物などがらくた扱いか、さもなくば略奪し放題の財宝だったかもしれない中、善親はイギリス人スタッフも含めて保護に邁進する。そして自然科学の研究を続けさせるのである。これは前館長のコナーいわく「昭南の奇跡」だった。敵味方を越えた友情を築けたのだ。おかけで貴重な文物を現在まで引き継ぐことができただけでなく、戦時中にも関わらず科学者の研究が続けられたのであった。

 

マレーの怪盗ハリマオこと谷豊

マレー半島で暴れ、また日本軍の元で戦った盗賊団があった。人呼んでマレーのハリマオ(虎)。その正体は、日本人谷豊である。

谷豊は、 福岡市で理髪店を営む・谷浦吉、母トミの長男として生まれた。豊が2歳の時、一家はイギリス領マレーのクアラ・トレンガヌに移住する。だから物心ついて育ったのはマレー世界であり、マレーの文化に親んで育った。ただ学齢期に帰国して日佐尋常小学校に入学した。しかし翌高等小学校時代に母とともに再びクアラ・トレンガヌへ戻り、マレー人の友人たちとともに青春時代を過ごした。おかげでマレー語とタイ語を堪能で、イスラム教に入信している。

20歳のとき、徴兵検査のため再び帰国し、アサヒ足袋や渡辺鉄工所に就職している。ところがマレーで父浦吉が死去。さらに豊の末の妹静子が華人によって殺されて首をさらし者にされてしまう。そのため谷一家は日本へ引き揚げたが、母親から事件のことを聞いた豊は激高、単身マレーへ向かった。そしてマレー人の友人たちと徒党を組み、華僑を主に襲う盗賊団を結成するのである。そして半島中の華人商店を襲い続けるのだ。

それに目をつけたのが、日本軍部だ。開戦時にマレー半島攻略を目標としていたため、現地に精通した諜報員を求めて、日本人でありマレー半島を股にかけて活動する豊と彼の率いる盗賊団に注目したのだ。当時谷は、タイで逮捕されていたが、日本軍が保釈金を払い、谷に軍へ協力するよう説得をした。しかし谷は、マレー人として生きていくと協力を拒む。しか説得を重ねられて、ついに軍への協力することになった。谷はかつての仲間たちを集め、再び「ハリマオ」盗賊団が結成された。

英軍は飛行場を守るため要塞「ジットラ・ライン」を構築することにした。しかしハリマオの一党は工事の妨害工作を行った。ジットラ・ラインに潜入して測量したり、工事の労働者に紛れ込んで、建設機器の破壊や資材の盗難・放棄などを繰り返した。
さらに敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体もしたという。しかし、爆弾を仕掛けるより解体ははるかに大変で危険だ。

こうしてマレー半島の攻略に大きな力となった「ハリマオ」だったが、谷はマラリアに感染する。ところが特効薬のキニーネを使うことを拒否してマレー伝統の薬に頼った。そのため悪化し、命を落とすのである。42年3月だから、実は日本軍として戦ったのはほんの数か月である。もちろん日本軍の手伝いをしたのは事実だが、それもマレー解放のためであり、最後までマレー人として生きる道を選んだのだった。享年31歳。イスラム式の葬式だったという。

ただ谷の活躍は戦時中から有名だった。「マレーのハリマオ」と軍も記事にするだけでなく映画にもなり、大々的に宣伝したからだ。むしろ死後の方が伝説的な英雄「ハリマオ」となったといえる。ただし日本人としてである。

それは戦後も続いた。テレビドラマ『快傑ハリマオ』を今も覚えている人もいるだろう。東南アジアだけでなくモンゴルなどでも活躍する日本人ハリマオ。某国軍事機関や市の商人、そしてスパイ団と戦うのだ。そのほか漫画にもなったし、連載もされた。ある意味、虚像が広められたのだった。

 

投稿者:田中淳夫

田中淳夫の詳細を見る